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公共の福祉

『ムツゴロウ・ラプソディー』という作品が、日本国憲法とどう関連するのか。
大阪公演を観た時には、よく分からなかった。

そこでは巨大公共事業で自然が破壊され、漁民の生活が失われたことが描かれていた。

生態系が破壊されることは由々しきことなんだろうけど、憲法とどう関係するのだろうか?
補償金と引き換えに事業を承認した漁民たちも、予想を超えた漁業環境の悪化によって生活が出来なくなり、自殺者も出ているということだから、いわゆる「生存権」を問題にしているのだろうか?
あるいは無理に憲法と関連付けて考えないほうがいいのだろうか?

大阪では宣伝物には「憲法ミュージカル」ではなく「市民100人ミュージカル」と銘打っているから、そういうことなのだろうか?
それならば東京版も、「憲法」の看板は引っ込めたほうがいいんじゃないか?

・・・等々の疑問を抱いていたが、回答を得る機会がないままだった。


いま、東京公演のチケット普及を本格的に進める時期になり、憲法との関連性をはっきりさせる必要が生じて来ているのだろう、主催者側できちんと見解をまとめようとする動きが起こって来ている。

それによると、どうやらキーワードは(公共事業における)「公共の福祉」ということらしい。
確かに田中カントクも去年の大阪の記者会見の段階から「公共の福祉って何なのか?」と仰っていた(大阪のブログに動画あり)。

ネット検索で得られる情報によれば、「公共の福祉」とは、人権と人権が衝突した時の調整を図る概念とのこと。

これまで何となく「公共の福祉」とは「個人の自由や権利」より上にあるもの、「公共の福祉」の前ではワガママを言ってはいけないのだ、とそういうイメージを持っていたが、とんでもない間違いで、少なくとも今の憲法では「個人の自由や権利」は最も尊重される最上位にあるもので、公(権力)によって侵害されることは許されていない。唯一、「個人の自由や権利」同士がぶつかりあってしまった場合にのみ、この「公共の福祉」という概念で調整をはかる(つまり何らかの自由や権利が制限される)、ということらしい。

中高生のための憲法教室 「公共の福祉」ってなんだろう?

(ちなみに自民党の改憲案では「公益」とか「公の秩序」といったものによって人権が制限されうる危惧があるとか。
この改憲案を待たずとも、「公」が「私」よりも上位にあるという既成の観念が、国民から主権者意識を奪っているのだろうか。)


「公共の福祉」の名目で行われる巨大な公共事業が実際には税金の無駄遣いでしかないことは、広く指摘されていることだ。
中でも諫早干拓事業は失敗事例の代表格とされている。

事業の有用性が否定され弊害が露わになり、環境や生活が破壊されても顧みず突き進む「公共事業」という名の行政行為。
その正体は何なのか、それがどのように観客に提示されるのだろうか。

乞うご期待。
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国民主権ということ

この連休中は憲法ミュージカルの合宿に参加した。

合宿に先立ち、先週の日曜には待ちに待った脚本が配布された。

「新政権の動向によって脚本を変えなければならない」と田中監督は仰っていたが、配られた脚本を読む限り6月の大阪公演とあまり変わっていないように思われた。

新政権のほうも言説では大きな転換を唱えているがそれがどのように実行・実現されるのかは、まだまだ不透明である。

今回の舞台のテーマが「早期の開門を訴える」ことだけであるなら、開門が決定されてしまうと公演自体が目的を失ってしまうが、11月の初日の幕が開くよりも先に諫早湾の開門が決定される、というほど迅速には進まないようだ。

いずれにしても政府のパフォーマンスや大臣の発言に踊らされないような、今回の公演で最も伝えるべきぶれないメッセージを僕らは持たなければいけない。

今回の「政権交代」とやらで、ギロチンを落とした側にいた者を含む多くの政治家の首がすげ替わったが、何が変わり、何が変わっていないのか。

政治とは富の再分配のシステムだ、というが、「公共事業」という名の税金の再分配によって、半世紀以上の間この国はカタチ造られて来た。
その根本を問い直していかなければ、次の選挙ではまた自民党が戻ってくるだろう。


今回の合宿の目玉は「よみがえれ!有明」訴訟の原告側弁護士団長の馬奈木先生の講演だった。
水俣病やじん肺訴訟で半世紀以上「国家」と闘ってきたこの方ほど、この「国」の真の姿を知っている人はいないのではないか。

県は、事業に反対する漁協は容赦なく潰しにかかる。
干拓事業の主目的である「防災」の嘘、そもそも「複式干拓が有効である」ことの嘘。
(2500億円という国民の税金がそれらの嘘によって騙し取られたのだ。)

自分たちは事業の「反対者」ではない、カネ欲しさに地元の漁業をメチャクチャにした上未来への責任も展望も持たない国・県に代わって、農業・漁業とも再生させる道を提案している自分たちこそがこの事業の真の意味での「推進者」である、という自負。

そしてその根本原理として、この国は政治家や官僚が作るのではなく、自分たち国民が作るのだ、ということ。
自分たちがこの国の「主権者」なのだという自覚。

(中学校の教科書で「国民主権」ということは教わるが、それが嘘だということ、政治家や官僚や財閥がこの国を作っていて国民は「主権者」ではなく「奴隷」だということは、誰も教えてくれない。憲法という「お題目」を有り難がっているうちに、国民は奴隷になった。国民は国家と闘うための武器としての憲法を自らの手に取り戻し、失った「主権」を回復するために立ち上がらなければ、国によって安楽死させられてしまうだろう――とは個人的意見。)

僕としては初めて諌早の問題と憲法が結び付いたような気がした。


果たしてこの夜、公演の主催者である弁護士たちと田中監督とで協議し、脚本を改訂することになったそうだ。

自然環境の豊かさとそれが失われた怒りのみを描くのではなく、人間を描くことが必要、という。

具体的にはこの事業の最大の被害者・犠牲者である殺された漁民たちの苦しみをさらにクローズアップすることになるようだ。

(「『ムツゴロウ』より『人魚姫』のほうが泣けた」と言ううちのカミサンの言葉を借りれば、「遠い地の可哀想な漁師さんたちのお話」で終わらせないためには、殺した側はすぐ側の霞ヶ関にいて、今も殺し続けている(つまり年間3万人の自殺者を生んでいる)ことを描かなければいけないと、個人的には思うのだが。)


そういう訳で翌日の、初めての「通し稽古」は、「台本を今後改訂する」という但し書き付きのものになった。

しかしそれ以外の演出は、全て大阪でやった時と同じだったような気がする。

どちらにしても、まだこの作品が見えてこない。

出演者たちは、通してみたらとにかくダンスに次ぐダンスで体力の限界に挑戦、最後はヘロヘロでテーマどころじゃない感じでもある。


ところでこの文章は、もともと憲法ミュージカルのブログに載せるべく書いていたものだ。公的機関の後援を受けているのにあまり「反政府」的なことを書いてはまずいだろうと、今までは遠慮していたが、結局それがお役所の下に自分を置く奴隷根性であるような気がして、しかし主催者に迷惑を掛ける訳にもいかないのでこちらに書くことにした。

これを機にまた自分のブログを再開していければとも思う。

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