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神の目線

いよいよ本番1週間前となった。今日は本番と同じ日野市民会館ホールを使っての稽古だ。
大阪から戻って来られた田中カントクも今日からは東京に詰める。指導者によって少しづつ指示が異なる稽古に戸惑っていたので、カントクが付いていてくれるのはとても心強い。それだけで安心できる。

土日の疲れもとれない体だが、喉の調子は回復してきた。本番は大丈夫だろう。

この日野のホールは、客席の傾斜がかなり急だ。舞台から見ると壁がそそり立っているようだ。2階席もかなり近い。お客さんからはどこからでも見易いだろうけど、舞台に立つ側はその圧力に呑み込まれそうになる。相当目線を上げないと、2階席まで気持ちが届かない。
このホールの2階席からの視線は、まるで神の目線のように舞台上の人間どもの営みを隅から隅まで見渡してしまう。カントクも今までフラットな稽古場では見えなかった部分を細かく指示する。特に舞台一番奥の両角のポジションをしっかり取れと言う。
また「ミザンセーヌ」(役者の導線や位置関係、その変化)ということについても話された。集団の動きに美しい秩序を求めている。もちろん機械的に動くのではなく、各々が各々の意志によって動きながら、それが全体として美しい絵になるように。
カントクの目線もやはり一種「神」からの目線だ。この人間の業を凝縮したようなドラマを美しいミザンセーヌによって観客に提示したいのだ。

ちなみにこの「ミザンセーヌ」について、演出家の山田和也氏は次のように書いている。
「ある瞬間の位置関係は、その瞬間のドラマの構造を表している。ドラマの構造とは、聞こえてくる台詞やそれを発している人物の感情とは別の、そのシーンを観客にどう受け取って欲しいかという作り手の意志の事である。
映画などの映像表現に於ける「視点」という概念を、観客にアングルを強制する事のできる「カメラ」という武器を持たない演劇で実現しようとする演出家の手段の事でもあるのだが、私にとってのミザンセーヌとは、上演中常に水面下に潜んでいるが、それでも流れ続けているドラマの構造(それが「プロット」である。水面上にあり、観客が常に意識している「物語」とは区別されなければならない。)を表し続けているものなのである。」

今日は大阪でも公演をしており、主演女優は不在だ。その代役として出演者の一人がロラマシン役をやった。前日にいきなりやってくれと言われたとのことだったが、熱演だった。僕らは彼女のアダ名をもじって「ロラマリン」と呼んだ。
しかしあらためて思ったのは、この物語の主役を演じる俳優はめちゃくちゃ大変だな、ということだ。ロラマリンも、自分の本番の前にこれだけ体力を消耗してしまって大丈夫だろうか。

そしてこれを1ヶ月以上、遠距離移動をしながら続ける本役の女優さんの肉体的・精神的な消耗は僕らの想像を絶する。ドラマの進行の中で彼女は少女から老婆へとなっていくのだが、やる度に本当に寿命が縮んでしまっているのではないかと思わせる。職業俳優というのはその技術力によって役を造形し、仕事として演じるのだという僕のこれまでの観念を崩された。本当にその役を生きてしまうのだ。

僕のような趣味でやってる素人役者が同じ板の上に乗るのは相当無理がある。あまりに温度差がある。しかも一緒に稽古が出来る回数が少ないのだ。
僕らは日本兵やフィリピン人の衣装をまとって出るが、所詮は形だけ、中身はやはり現代東京人なのだ。それは観客のほうも了解している。僕らはある意味市民である観客を代表して、たまたま舞台に立っているに過ぎない。
その舞台で、僕らは主演女優が自らの肉体を通じて呼び寄せた(そう、彼女は巫女なのだ)トマサ・サリノグの魂――少女から、老婆になるまでの――に出会うのだ。その少女の魂は僕らの目の前でズタズタに傷つけられ、それでも「何か」を求めながら生き、消えてゆく。その「何か」とは、「愛」なのか「正義」なのか「尊厳」なのか。
僕らの世界が見失いかけているその何かを、僕らはこれからもう一度探し始める、その始まりの物語なのだろう。
 感動しますね・・小野田さんのブログ・・
文字の力は「絵」と同じですから、イメージが強くなる!
 言葉は歌のように、入り込む利点もありますが・・・

 そう・・・観る人が日本人なんですもん
日本人であるけれど、人として、その現場に居たらこうあるであろう・・・という「自分」でいいのではないかと思っています

 重いものをやっているけれど、そこが板であり、日本人であり・・・だから、どこかで安心して見れるのかもしれないですし・・・

 お客様は、何も出来ないまま、逃げ出せないんですもん
座っているしかない!ある意味「苦痛」もある・・・
 だからこそ、思い切り笑わせる場を作って、バランスを取ってあげる・・・喜怒哀楽、優しさの笑いですよ~♪
「喜怒哀楽」、あとからオマケで付け加わったシーンのように思われて、実はこのドラマでかなり大事な「救い」になってますよね。辻井さんは女性国際戦犯法廷の判決によって初めてトマサさんが「エンパワーされた」と話されましたが、このドラマの中では時代は違うけどあの「喜怒哀楽」がそれと同じような力を果たしているのではないでしょうか。

その手前の深刻な独白からこの脳天気な歌にどうつながるのかと思ってましたが、生きることの辛さ悲しさを全て飲み込んでなお人生を慈しむことが出来るゆこりんの人間力、さんたまのロラさんたちの人間力がこのシーンを最高のものにしていますよね。
 うっわ~!!カッコイイ!!
「人間力」ですか~!!
 すごい、これまたピカイチの賛辞ですね~!
私、これで1週間食べていけますよ!!

 私、一昨日、同じジムの年配の方に(去年の舞台も今年も来て下さる方なのですが)

「わたくし、あなたの生き方が、とても好きなの」
そう、道での立ち話で言われて、反芻する毎に(なんて幸せになる言葉なんだろう!)
人が自分を認めてくれる喜び、そしてその人との今までの関わり・・・これが「尊厳」というものか・・・!

 そんな風に思ったばかり!だけど「人間力」というのも、なんと力強く、血の通ったものでしょうか・・!

 私も、喜怒哀楽は、追加されたものでありながら、むしろ最終的に総括された、「普段着の『尊厳の門』」だと思って(Matunobu先生の肩の力の抜けた、いい状態での最高の曲!)とても大切にしている、大好きなシーンです♪

 泣きながら、笑ってる、そして踊りながらも誰かとアイコンタクトを取りながら、(うんうん、わかってるよ)
 そういう、そばにいて、普段着で、温もりのある優しさ

 それが、伝わると、いいなあ・・・♪
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