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観客のカタルシスは

初日の舞台がはねて、僕らは兎にも角にもこの長い道程の果てに一つのことを成し遂げたという喜びを味わった。
しかしお客さんの側は、僕らのようなカタルシスは味わっていないようにも思える。
僕らが初めて通し稽古で主役の演技を見た時の衝撃、重苦しさ、それが何倍にもグレードアップしたものを観客は見せつけられたのだから。

僕がこれまで参加した舞台の中で最もハードな内容と表現を持つこのお話、観に来てくれた友人たちの反応もやはり重かった。
山田洋次さんは「トマサさんを気の毒な犠牲者として考えるのは間違いで、ジャンヌ・ダルクのような英雄なのだ」と述べられ、田中カントクはトマサさんの生き方を通じて「人間の尊厳」なるものを伝えようと試みたのだが、それは男性の側からのロマンティックな願望ではないだろうか。
女性にとってはあまりに重く痛い物語。男性は「これは目を背けてはいけない真実だ」と観念の中で処理出来るが、女性は自らの体の内側でこの痛みを受け取ってしまう。

僕としてはこの重く悲しい物語の末に、僕ら自身がトマサさんから受け取ったもの、未来を切り拓いて生きる者としての意志をしっかりと示すことによって、この物語を悲劇の女性の物語としてではなく未来への希望を示す「我々」の物語に昇華させたいと思っていた(去年僕が参加した宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」がそうであったように)。
しかし現実的には、この悲劇の主人公の圧倒的な存在感、圧倒的な演技、圧倒的な痛みと苦しみの前に、我々一般参加者の姿はかすんでしまったのではなかろうか。もはや「市民ミュージカル」という枠組みを超えてしまったのかも知れない。観客の意識はロラマシンにぐいぐいと引きずり込まれ、我々は主体者としての姿をはっきり表現して観客と共鳴し合うことが、十分に出来なかったように思う。あるいはそれは観客の側に迎合しない田中カントクの作家性の強さによるものなのかもしれないが。

「我々」の側の問題としては、やはりまだまだ稽古不足。
演者としてのアクションとリアクションが中途半端なため、その場面の意図や、ロラマシンと向き合う「我々」としての意志の明示が不明瞭なのだ。

本番当日だったか前日だったか舞台での稽古の中で、振付家が「全員で揃って前に1歩出よ」と指示したことに対して、出演者のほうは「カントクからは「揃って一斉に動くな、各々の尊厳にもとづいて動け」と指示されている」と戸惑う場面があった。
カントクとしては「いかにも機械的にみんな揃って動くのは不自然で気持ち悪い」ということだったのだが、バラバラの不明瞭な動きでは当然ながら「我々」としての総体的な意志が見えて来ない。演出家や振付家に指示された動きであってもそれがわざとらしくないように見せること、自分の内面にその動きの動機をきちんと持つこと、またはその場面の情感や音楽の高まりに共鳴して一斉に動くことによって舞台全体の空気を動かすこと、これは役者にとっても演出家にとっても基本的な技術の範疇だ。そういった動き方が本番当日まで作れなかったこと、それはやはり稽古場に演出家や振付家がいなかったことが響いていると思う。

また、「自分らしく」「自分の個性で」という思いが、東京の出演者の場合はともすると個人プレーになりがちで全体の一体感を損ねてしまうようだ。うちのカミサンは「みんな女優、男優が多すぎて、どこを見ていいのか迷ってしまう」と言っていた。東京は舞台経験者も多く、「こう演じよう、こう見せよう」という色気が、観客の感動の目障りになりかねない。カントクが「自分自身であれ」と言っているのは、「演技をしようとするな、市民としてそこに存在せよ」ということではないのか。

僕自身も、初日まではその場の感情に溺れ浸るままに表現しようとしすぎていた。
これからは余分なものはそぎ落として、ただ誠実に、出来る限り無垢に、そこに存在するように心がけたい。我々の「意志」を、太く、深く、真っ直ぐな1本の束として観客に届けられるように。
僕は自分が感動したくて舞台に立っているのではない。観てくれるお客さんの心を動かしたいからやっている。
だからもう僕は、余計な涙は流さないことにした。

ONOさんのブログ、毎回楽しみにして見ています。文章での表現力がすばらしいですね。わたしにとって、もっとも苦手な部分なので、とても尊敬しています。

初日を見た家族や知り合いからは、「目立ちすぎ」と指摘を受けました。知っている人だったから、そう見えただけかもしれないけれど(たしかにダメ出しをもらったところもある・・・。)、あとでDVDを見返してみても、どこがどう目立っているのかよくわかりませんでした・・・・。ただ、あるときは市民であったり、あるときはロラであったりしていました。「誠実に、無垢に」存在することですね・・・。でも、それがいちばんめだつことかも・・・・。全員がそれぞれの個性で演じる中で、大きな塊が見えてこないか・・・とも期待しているのですが・・・。
初日は、皆の『初めて』の緊張と不安が連帯感を生み、市民ミュージカルらしいものだっと思います

 でも・・・まだまだ一つのシーンを「絵」としてイメージ出来て無かった・・(私も)

 今日はゲネのDVDを見て、台本読んで「絵」を頭に叩き込み、何を見せるシーンかの確認をしました

 観念で「いい舞台」とかじゃダメですよね!
具体的にどうすべきか、貪欲に努力すべきですよね!
 面倒な作業です、でも!やるべき!

 佐竹さんのオケだけ聞く稽古!イメージを一つに・・・!
小野田さんが(きっと皆も)「足りない」と思っている部分・・・多分、それがミクロとマクロなんでしょうね・・・

 でも、東京はセンスのいい人が多いですから!
やりましょうよ!出来ますよ!
 15日の稽古は、その宿題をこなした人が輝くはずです!

 私は、それを信じて努力する事を誓います!
やります!やりましょう!自分を、皆を感じる舞台!
Yukikoさん、お元気ですか~?
山梨の合宿、盛り上がったみたいですね。
東京ではこのところの寒さで風邪や怪我人続出です(泣)。

お客さんの目にどう映っているか分からない不安の中で、何か「表現」しなくてはいけないのだという脅迫観念に迫られて「それっぽい芝居」をしてしまうと、結局ウソになってしまう。動けなければ動けないまま立ちつくしていても、そのほうが「本当」が伝わることもありますし。舞台って本当に難しいですよね~。お客さんからは「本当」も「ウソ」も全て丸見えになってしまいますから。せめて自分に対してウソの無いようにそこに存在したい、と思うのですが、何やら余計なものが一杯まとわりついてしまって、それを妨げるのです。

ゆこりんさん、熱いコメント、とても光栄です。
そうですね、出来ますよ、まだまだ!これから!
舞台は具体的なミクロの丁寧な積み重ね、それがマクロの「感動」というものを生み出すはずです。

ちなみにうちのカミサンのダメ出しは多々あるのですが、一つ挙げるとラスト「尊厳」の前の語りの部分、みんな夢遊病者か水槽の魚のように何も考えず(実際には美しく歩こうとか人にぶつからないようにとかどうやって自分の立ち位置まで行こうかとか色々考えてるのだろうけど)誰とも目を合わせず触れ合うこともなく歩いていて、何も客席に伝わって来ない、と言ってました。あの場面でもっとみんなの一体感や信頼感、(僕に言わせると「胸の中の一粒の種」を信じる気持ち)が伝わって来れば、「尊厳の門」はもっと感動的になるはずなのに、今のままでは勿体無いとのことでした。
同感です!私、あの部分は今まで歩んできた道のりを想い筒歩いています、子供と向き合った数年間の葛藤やら、解決やら・・自分との(パニック障害との)戦いやら・・・
 だから、時には止まったり、振り返ったり、そして人と見つめあったりしたいのです
 明日の稽古で、言ってみませんか?
石橋先生だって「こりゃ、流れるプールだね」って!

 全員に、あの長時間「尊厳」を維持するのは大変ですよ!
こうやって、それぞれの想いを表現して、認め合って、明日に繋げるのが、私達のミュージカルじゃないかなあ・・・って思います!

 「こうしなくちゃいけない」と言われたからするんじゃない!それが素敵だったらGO!だけど、そうじゃなければ「こうしたら、もっと素敵になる!こうしたい!」という自由や、余地、受け入れる側の柔軟性、センス、優しさがあれば、いう方向にしか流れようが無いんですよ♪
 そう思いませんか?
 それにしても・・私の「熱いコメント」・・ですねえ
確かに・・そうかも・・わはは

 こういう文字が、無表情で、クールじゃないですか?
舞台と一緒で、普通にしてると「冷たく、暗く」なりがちなんですよね~;
 だもんで、ついつい「熱く」なっちゃうんです;;

 でも、でも!「熱く熱く冷静に!」で・す・よ・ね♪
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